ペルシャ絨毯の生まれた背景
歴史的な絨毯
ペルシャ絨毯は、最古の絨毯とも知られるものです。ちなみにこの絨毯はイランで織られているものを指しています。ペルシャとは今のイランを示す言葉なので、イランで作られている絨毯がペルシャ絨毯と呼ばれています。この絨毯の起源は4000年以上前と考えられており、正確な起源の特定は難しいものです。いずれにしても4000年や5000年ほど前のものと考えられているため、最古の絨毯といえます。今はパイル織りの仕様になっているものが多いですが、当時は獣毛を固めて作られたもので、やや太古の時代と比べると、仕様が異なっている点があります。
1949年にロシアの考古学者によって、シベリアにあるアルタイ山脈中パジリク渓谷のスキタイ王族古墳より、凍結された劣化の少ない絨毯が見つかりました。BC5世紀頃と考えられている発見された絨毯の仕様は、羊毛やラクダの毛の地糸などが使われていました。スキタイ王侯の棺に納められていたと考えられる埋蔵品という事で、この絨毯は現存し、パジリク絨毯とも言われています。
ちなみに、絨毯の誕生の歴史としては、西アジアの砂漠や山岳地域にて、遊牧生活を送りつつ、羊毛を使い、敷物が作られていたのではないかと考えられています。平織りのキリムなどから、模様のある敷物などが生み出されていき、その後にパイル織りの絨毯が作られたと考えられています。これは3000年前から5000年前頃と考えられています。西アジアの砂漠や山岳地域で、夏の日差しや冬の寒さをしのぐためには、なくてはならないものとなり、発展を遂げてきたものです。これらの絨毯の歴史を探るために、パジリク絨毯などは貴重な資料として大切に保管されており、絨毯の歴史を研究していく材料となっています。
日本への伝来
ペルシャ絨毯はイランの織物として歴史がありますが、この絨毯が日本へ伝来した事に関しても長い歴史があります。ペルシャ絨毯が日本へ伝来したのは桃山時代で、中国やシルクロードを経由して、日本へと渡ってきたものと考えられています。当時、権力者であった豊臣秀吉が絨毯の美しさをとても気に入った事で、絨毯を裁断させ、身にまとう陣羽織とさせました。ペルシャ絨毯の産地であるイランと日本での共通点として、いずれも欧米のような土足の文化ではなく、室内では靴を脱いで生活するという点です。そのような生活習慣の共通点もあるためか、日本の生活にも絨毯が受け入れられる事となりました。
日本では祭りの文化との関わりも深く、京都の祭りで有名である祇園祭りでは、17世紀に伝わったと考えられている絨毯が、山鉾を飾っている懸装などにも使われている事があります。そのため、日本の祭りの文化にも昔から深く関わっているという事があります。日本で人気である生産地の絨毯がナインで作られたものです。織物としての歴史は100年ほどなので、ペルシャの絨毯と比較すると長いわけではありません。しかし、ベージュなどの色合いから人気があります。
ちなみに、日本へ伝来したとされる絨毯の文献で最も古いものは、魏志倭人伝にて邪馬台国の卑弥呼に、朝貢の答礼として絨毯のような敷物が贈られていた事が記されています。さらに、遣唐使による工芸品には、花氈というフェルトが使われており、今でも正倉院宝物として残されているものです。本格的に日本へ絨毯が入ってきたのは17世紀以降と考えられています。
ペルシャ絨毯と芸術性
ペルシャ絨毯が、昔と比較すると芸術性が高まってくるようになったのは、西アジアがイスラム化し始めた7世紀以降です。イスラムの中では、偶像を崇拝する事が否定されていた事があり、そのため、絵画、彫刻などの生産が比較的遅れている特徴がありました。対して織物や陶器などの工芸品の発達が早く、アラベスク文様が工芸品を飾る事で、工芸美術を構築していきました。当時、高級品とされる絹製絨毯は権力などの象徴の証として、王侯家族の観賞用、各国への贈答用など、様々な使い方がされていました。
イランにて絨毯の生産が発達し始めるのは16世紀のサファヴィー朝以降で、アナトリアの絨毯とは異なる、曲線を緻密に暑かったペルシャ絨毯が作られていきました。アッバース帝の治世には絨毯工房が多く新設される事により、金糸を材料とする絹の絨毯など、綺麗な絨毯が作られるようになりました。18世紀になると、アフガンの侵略によってサファヴィー朝は滅びてしまい、そのために絨毯の生産も多くが途絶えてしまいました。
19世紀後半になるとタブリーズを中心として絨毯の生産が復興されますが、それまで1世紀ほどの期間が空きました。絨毯の復興は欧州の市場へと向けて行われました。第一次世界大戦の時期には、市場がヨーロッパからアメリカへと移ったものの、20世紀のパフラヴィー朝でも絨毯の復興のための制作は続き、そこでペルシャ絨毯が世界でも不動の名前となる事となりました。始めはシルクロードの遊牧民が生産していたものの、最終的には権力や富の象徴へと、絨毯の価値が変わっていきました。